『鬼の子』あらすじ 第四章


「よし、王宮へ行こう!」

汪葉が唐突に言い出したのは宗翰の許から白寿が帰ってきて一ヶ月が過ぎた頃だった。生まれ故郷の事件から一向に心を開く様子が無い白寿に、気の短い汪葉が痺れを切らしたのである。

「そんな顔されてたら堪ったもんじゃないよ。私のお師さんにお伺いを立てよう」


汪葉は若い頃に宮仕えの経験があり、人望も厚かった。今でも後宮から復職を望まれており、つい先立って馴染みの姫君達からの文を山ほど受け取った所だ。

「後宮は女の園だがその分気に入られると後ろ楯が厚くなる。その辛気くさい顔に薄ら笑いでも貼り付ければちょっとは気分も明るくなるだろうさ」


何年も宮仕えを固辞してきた汪葉が後宮に戻ることを決めたのは、白寿を景気付けるためだけではなかった。白寿が入軍し各地を転々としていた二年間、匚家では熾烈な家督争いが起こっていたのだ。

尚耀は、二年前の軍事クーデター以来情勢が不安定だった環均郭を建て直そうと政治に乗り出した。


まず尚耀は手近なところから足固めをすることにした。地元の小作農を一件一件回っては、農作業に下郎の手を貸したり御用聞きのような細かな支援をしたりした。尚耀が隠居している辺りは環均郭の中でも特に鄙びた地域であったが、地方経済がかなりがたついていることに気付いた。


そこで体が大きく農作業が得意な下郎達はみな周辺地域に派遣してしまうことにした。男手を入れて、荒れた土地を耕し食を潤そうという魂胆だ。

また、尚耀は少し足を伸ばし環均郭の繁華街をいくつか回った。それなりに人の往来はあったが、店頭に活気はなく、政治情勢に不安を感じているようだった。


そうした都市部の経済には、尚耀がそれまで持て余していた匚家の潤沢な資金を惜しみ無く注ぎ込んだ。飛脚や運送屋を雇い上げ、先に下郎達を派遣した農家達から新鮮な野菜や魚などを迅速かつ安価に提供した。商店の軒先をこれまた一件一件訪問しては困っていることを解決してやった。


そうすると、次第に尚耀の屋敷へ人々が訪れるようになってきた。商売での困り事や、痴話喧嘩まで、様々な相談を持ちかけてきたのだ。下郎達の中でも目端が利く者や読み書き計算ができる者は、こうした人々の対応に当たることにした。そうなると今の別荘では手狭なので交通の便の良いところに越した。


ここで、口の達者な汪葉が尚耀の境遇をあることないこと流布させたのも尚耀の株を上げるきっかけとなった。それは、「尚耀はずっと民の事を案じていたが本家に苛められ幽閉されていて、民を想う心を封印させられてきた。しかし環均郭の窮地に当たり命辛々逃走して今ここにあるのだ」というものだった。


その言葉が真実であろうとなかろうと、人々にはあまり関係がなかった。売名行為だと非難する者もあったが、貴族本人が溜め込んだ金を人々のために放出することは低所得者層にとってはありがたいことだったし、中間所得者層からも尚耀に好意を抱き支持する者が出てきた。


ばらまかれた金に寄ってくる浅ましい人々もいたが、そうした者達は機嫌をとってやれば尚耀の事を大いに好ましく宣伝してくれたので好きなようにさせた。

匚家本家の方に肩入れする者も当然居たし彼らは尚耀の事を攻撃した。しかし尚耀はお家騒動を逆手に取り貴族や官僚の腐敗を訴えることに成功した。


尚耀が地元の人々に金を使い親身になることで、匚家の財産を良いように使い私腹を肥やしたい尚耀の父らと尚耀とは対立を深め遂には直接対決を辞さない構えになった。市民らはますます尚耀への支持を高めていった。

しかしいくら尚耀が市井の人気を博しても政治そのものに介入できる力は持てなかった。


有力な貴族や商人達、上級官僚らはことごとく尚耀の父・尚達の側に付いていたからである。特に、環均郭判官の趙雲という人物は尚達と昵懇の仲であった。

軍事クーデター以降実権を拡げていた官庁の協力が得られないことは、環均郭建て直しを掲げる尚耀にとっては大きな痛手だった。


そこで、下された決定が汪葉の宮仕え復職だ。後宮の女達は大抵貴い家の出身なので環均郭に限らず全国の貴族達へのパイプラインができる上、より身分の高い女御に気に入られればそうした女達から直接の支援を受けられる可能性があるのだ。

思い立ったが吉日と、汪葉と白寿は直ぐに後宮へ向かった。


大方の予想通り、宮仕えは今まで迅濤・宗翰らと送った日常よりも白寿にとって遥かに辛いものとなった。常にごったがえす人の合間を縫って移動し、長い着物の裾を引きずってしゃなりしゃなりと歩くよう命ぜられ、人に気を使いながら我を通すという、白寿にしたら空前絶後生活である。


身体能力に長けたさしもの白寿も、初めのうちはあちらにぶつかりこちらにぶつかり、滞りなく廊下の端から端まで歩くことすらままならなかった。汪葉はそんな白寿を飯炊き女たちの中に放り込んですぐ女の園の中に消えてしまった。すれ違い様聞こえるように陰口を叩かれる日々は未知のものだった。


そんな大変な日々を送っていたある日、汪葉が白寿の持ち場にひょっこり顔を出しそのまま白寿をどこかへ連れ出した。行先は、汪葉の「お師さん」の御堂だった。

道すがら汪葉は白寿のやつれ具合をからかった。「人を人だと思うからいけない。動き回る木や岩だと思って人の気を読めばいいだけさ」


「それができれば苦労はない」と白寿は反駁したが、「良い顔になったじゃないか」と汪葉に言われて、多忙の余り前に抱いていた憂鬱を忘れ去っていたことに気付いた。

「人間、嫌なことがあったら忙しくしてるのが一番さ。くよくよしてるのはあんたに一番似合わないよ」

カッカッ、と汪葉は笑った。


「お師さん、例の子を連れて来ましたよ」

汪葉にそう紹介された相手は、豊かな金髪に陶磁器のような肌をした、目を見張るほど美しい少女だった。

「あなたが白寿ね。私は恙蘭です」

恙蘭はころころと、鈴がまろぶような声で白寿を呼ぶ。

「あなた、てんでダメね」

ピシリ、と、その場が凍った。


初対面の人間に初っ端から否定され、流石に顔をしかめた白寿に、人形のような微笑みで恙蘭が畳み掛ける。「あなた、今この国に何が起こっているか、知っていて?」

白寿の返答を待つこともせず、恙蘭は言った。

「この国は、傾いているのよ」