『鬼の子』あらすじ 第十章


武闘大会最後の目玉である優勝者と白寿の決闘が始まった時、尚耀は沈痛な気持ちで大歓声を聞いていた。白寿の公開処刑に同意した日から、尚耀の身辺には常に公主直属の隠者が潜むようになった。尚耀に心変りをさせない為だ。しかし盲剣が化物になり白寿を襲った瞬間、尚耀は闘技場に飛び込んでいた。


白寿が胸を貫かれたとき、そこから噴出してきたのは西風の魔力であった。辺り一帯の時が、停止した。鶴溢や恙蘭、汪葉達ですら、それに抗うことはできなかった。一人だけ、いち早く動けるようになったのは、尚耀であった。尚耀は思うように動かない体を引き摺り、白寿の棍を手に取り地に突き立てた。


「掛けまくも畏き八百万の神よ、禊祓い給いし時に成り座せる大祓えの大神よ、諸々の禍事罪穢れ有りしより、祓え給い清め給えと申すことを聞こしめせと恐み恐みま申し候」尚耀は破魔の印を切った。「俺だって鶴溢様の四番弟子よ、匚家とは封家よ、封魔の力見せてくれるわ」


匚家は環均郭の政を司りながら、代々国の斎事を執り司って来た家であり、国を代表する神官としても神事に参加してきた。長い歴史の間に神通力は失われ、権威だけが形骸化して尚達のような愚官が産まれたわけだったが、鶴溢は迅濤や宗翰に仙術を教えたように尚耀には神官としての業を教えていた。


尚耀は他になんの取り柄も無い子どもであった。迅濤ほど武術に長け気持ちが強かったわけでもなかったし、宗翰のように読み書きが達者で機転が利くわけでもなかった。汪葉のように仙気が豊富なわけでもなく、寧ろ他の人が普通に持ち合わせている程度の仙気すら尚耀には備わっていなかった。


尚耀が白寿の体内から吹き出た西風の力の影響をほとんど受けなかったのは、ひとえにそのためであった。仙気が強い者ほど強く力の影響を受け、一般市民ですら仙気を操られていたが、仙気を持たない尚耀にはほぼ効果がなかったのだ。

尚耀が祓詞を述べると、尚耀にしか見えない綻びが闇に入った。


尚耀がその闇を掻き分け闇の中心に辿り着いた時こそ、白寿が尚耀の声を聞いた時であった。

「尚耀、こちらへ来るな!」白寿は悲痛な叫びを挙げた。「お前まで殺されてしまう!」

西風は白寿を拳の中に握り込み、尚耀に言った。「お前も不具だな。人並みの力も持ち合わせていない。お前に何ができる」


尚耀は西風には答えなかった。

「白寿、お前はここで何をしているか」白寿は呆気に取られた。この馬鹿はこの期に及んで何を言っているのか。しかし尚耀は繰り返した。「白寿、お前はここで何をしているか。細大漏らさず事の説明を致せ!」白寿が、そして尚耀を知る全ての人が初めて聞く怒号であった。


「それは、」白寿は答えに窮した。尚耀は再び声を荒げた。「俺もお前も馬鹿なのだから、馬鹿でも解るように纏めればいいんだ!」

「何を訳のわからないことを」西風が巨大な拳を振りかざした。「お前も、死ねよ」

「尚耀、」白寿は、唇が震えた。


「…ーー助けて!」


「良く言ったァ!」


尚耀は、有らん限りの力を込めて白寿の棍を擲げた。棍は西風の拳を避け、西風の眉間に突き刺さった。その瞬間、白寿は棍に塗られた漆が砕け、装飾が剥がれるのを見た。その下には、尚耀の字で、「白寿に起こる全ての禍き事を遍く祓い給へ」と書かれていた。

「引き抜け、白寿!」


白寿は棍を引き抜いた。阿鼻叫喚と共に、白寿は解放され、西風の眉間からあらゆる災厄が噴出した。「たかが人間の分際で…許さん、許さんぞお!」爽やかな見た目をしていた青年は最早おどろおどろしい化物と化していた。

尚耀は知る限りの破魔の法を唱え、白寿は襲い来る災厄を薙ぎ払った。


西風を倒す好機は一度しか作れない。

白寿が、周囲の雑魚達を一瞬、蹴散らした。その隙に尚耀が渾身の破魔の法を西風に発射した。その魔法に乗り、白寿が西風に打ち掛かったのだ。

「何故だ」西風は二人の一撃を受け止めた瞬間、そう問うた。「お前だって異形なのに、何故皆から愛される?」


西風の心が折れたと同時に、西風が造り出していた暗闇が光と共に弾けた。きらきらと、無数の光の屑が舞い散った。

「森羅よ」白寿が虚空に向かって呼び掛けた。「森羅、森羅万象の精霊よ、お前はそこに居るのだろう」

「はい、私はここに居ります」

光の屑が固まりとなり、ひとがたを成した。


光の中に横たわる西風の、傷だらけの頬にそっと森羅が触れた。

「やっと会えた…」西風が、弱々しく零した。「私は森羅、森羅万象。風となり、雨となり、ずっと貴方の側に居りましたのに」森羅は、煌めく涙を静かに溢した。

「そうか、僕が見えていなかっただけなのだな…僕は、なんて愚かな事を…」


西風は、そっと息を引き取った。その魂魄は光の屑となり、崩れて風に流されて消えていった。

「白寿、紅い髪の申し子よ、最期にこの人の心を解きしてくれてありがとう。貴女と貴女の大切な人に、森羅万象の加護が有らんことを…」

そうして森羅も光となり、空に舞い上がって消えたのだ。


光が引いていくと、そこは韋燦公主と淕千公王の眼前だった。白寿の胸には盲剣の凶刃が深々と突き刺さり、傷口からは大量の血が流れ出ていた。

「なんだ今のは…、なんだ、今のはァ!」盲剣は怒り狂いより深く白寿の身体に剣を捩じ込んだ。「貴女の呪いは僕が解く筈ではなかったのか!」


「呪いなど、」白寿は胸に刺さった剣をしっかと握り、口から血を吹き出しながら盲剣に言った。「呪いなど、初めから在りはしないのだ!」

白寿の言葉と共に、爆風が巻き起こった。建物は粉々に砕け、屋根瓦は飛び、天地が揺れた。その姿を、眼を閉じずに見据えていたのは韋燦公主只一人であった。


爆風に吹き飛ばされた盲剣が眼を開くと、威風堂々たる仙人が空気を踏んで盲剣の方へ歩いてきた。清々しく晴れているのに、爆風に揺らされた大気からはさめざめと雨が降ってきていた。仙人の衣は荘厳で、風にたなびく豊かな火の色の髪の毛は足許にまで届くほどだった。盲剣は仙人の美しさに見入った。


その美しさが欲しい。盲剣は痛切な想いに駆られ、仙人に飛びかかった。

「哀れな子だ」盲剣の刃は仙人には届かなかった。「お前が優しくしてくれたこと、忘れたことはなかったよ」白寿が手を翳すと、盲剣はあっけなく絶命した。

息を呑んでその姿を見詰めていた韋燦と淕千の許に、老翁が駆けてきた。


人々は固唾を呑んで事の成り行きを見守った。盲剣を下した白寿は西風との闘いで力を使い果たし意識を失った尚耀の側に降り立った。

「汪葉、」白寿は昔馴染みを呼んだ。「尚耀の手当てをしてやってくれ。ひどく憔悴しきっているから」

汪葉ははたと我に返り、慌てて尚耀に駆け寄った。


「鶴溢翁、恙蘭様」白寿は再び空に舞い上がり、二人の師に声を掛けた。「迅濤と宗翰、それから二人の軍隊をお借り致します。北方に狩らねばならぬ残党が居りますゆえ」ふわりと白寿が掌を仰返すと、まだ闘える仙人達が淡い光に包まれて空中に浮かび上がった。

「気を付けてね」恙蘭が静かに答えた。