『鬼の子』あらすじ 第八章


昼から宗翰を待たせて夕暮れ時にようやく現れた男に、宗翰は己の目を疑わざるを得なかった。その男は、かつて宗翰が師と仰ぎ上官として仕えた泰旭その人であった。

「お前も昇進したなあ」

泰旭は、壮爽としていた当時からは想像が付かない程、酒焼けし下卑た笑いを立てた。


泰旭の要求は至って単純であった。「趙雲を俺に差し出せ。そうすれば佰は鉤から手を引いてやる」趙雲は自分を策謀に嵌めた張本人であり、復讐を果たせるならばこの戦争を終わらせてやってもいい、それ程の力がこの泰旭にはある、と言うのだ。泰旭が頭巾を取ると、乾いた血のような赤毛に染まっていた。


趙雲の処遇をどうするかについてはかなり議論が錯綜した。逆臣一人の命で国の命運が購えるのなら安いものだとか、一旦国外追放したという体で泰旭に引き渡せば後のことがどうなろうと知ったことではないとか、国内の造反者を国内で裁けないことがあれば国の威信に関わるとかいった意見が交わされた。


韋燦公主の決定は「半殺しの目に遭わせた後で泰旭に譲り渡す」というものであった。これで鉤国の面子も保たれ泰旭の望みも叶うことになった。

宗翰によって泰旭に引き渡されるとき、趙雲は辛うじて人の原型を留めている程度に痛め付けられていた。

「鉤国の韋燦というのは中々の女傑のようだの」


泰旭にギロリと睨み付けられ、宗翰は答えた。「韋燦公主は、佰と戦い鉤を救う。貴方がどれ程強くなっていようとも、悪の道に落ちた貴方が高潔なる韋燦公主に勝つことはない」

そうか、と泰旭は言った。

「よし、気に入った」何を、と宗翰が問う隙も与えず、泰旭は踵を返し佰国へと騎馬を繰った。


「者共、出合え!佰国を倒すぞ!」

なんと、泰旭は佰国の兵の矛先を佰国の方へ向け直させたのである。泰旭は後に語った。「趙雲が本当に欲しかったのは国の覇権でも大金でもない。俺の細君さ。俺たちは十の頃からの腐れ縁で、趙雲が密かに惚れた女は俺に惚れて、俺は女をめとったのさ」


ではその赤い髪は、と宗翰が問うと、泰旭は昔と変わらない大笑いをした。「こいつはカツラだ!節穴め」

泰旭の存命及び鉤軍への帰依は直ちに公主に伝えられ、泰旭は禁軍の長の任を命ぜられた。泰旭はそれを固辞し、一度軍を離れた者として初心に帰りたいとして宗翰に仕官しそれが認められた。


かつての名将が帰って来て影響を受けたのは軍部だけではなかった。かつて鉤国を司っていたのは天子と皇后の二柱であった。韋燦公主の改革により廃止された制度であったが人々は精神的支えをそこに求めた。婚礼の相手となるべき王族も居らず公主は長いこと渋っていたが、終には民の声を聞くことにした。


強く豊かだった鉤国を!人々はみなそう口にした。戦と歪み合いによって荒れてしまった国土を自分達の手で取り戻そうと言うのだ。

そこで韋燦公主が婚儀を取り仕切るよう命じたのは、尚耀であった。尚耀は国内の混乱期から人々を助けており人気があったし、改革の象徴として最も適していたのだ。


韋燦公主は、豪華な着物や贅沢な食事は忌避したが、昔ながらの六礼に則って段取りし、国を挙げて大々的な祭りを開催するよう命じた。周辺各国の王公らも招き、国の平らかで豊かなことを宣伝しようと目論んだのである。韋燦公主の婚礼が正式に発表されたのは、前王韋濕の薨去から僅か半年後の事だった。


韋燦公主の結婚の相手に選ばれたのは、長年に渡って公主に仕えていた小納戸役の少年であった。名は淕千と言い、貴族ではなく平凡な官僚の家の出身であった。容姿端麗で読み書き達者、才気煥発な様子を認められ幼い頃に公主の側役に任ぜられていた。

尚耀は二人の婚儀の打合せの為に王宮に呼ばれた。


国民はこの婚礼に大いに湧いた。公主の婿役に身分の低い者が選ばれたことは有史以来初めてだった。尚耀は初めて内裏に足を踏み入れ、その重責をずっしりと両肩に感じた。王政が白紙になったとは言えその歴史は重厚な王城に刻み込まれていた。

平伏して待つ尚耀の眼前に現れた公主は只者ではなかった。


「匚家令息尚耀よ、表を上げよ」

尚耀が初めて目にした韋燦公主は齢十五にして堂々たる王者の風格を備えた小女だった。なるほど公主が周辺各国に乗り込んでは次々に連衡同盟を結べた筈である。尚耀も大の男であるが目の前に現れただけで相手を萎縮させる圧倒的な雰囲気があった。


公主が尚耀を呼び立てたのは婚儀の相談などではなかった。「奥宮にある紅の髪した女の妖、あれはその方のものであったな。端的に申す。あれの命、妾が貰うぞ」

今や鉤国にとって最大の敵は佰国、赤叡師団であった。公主は赤叡師団への見せしめとして白寿を処刑せんとしていたのだ。


「あれが何者であるかということなど妾は知らぬ。だがあれの死がこの国の為になることは大いに見える。その方があれに憐れをかけていることは聞き及んでおる。それだからこそ、その方はあれの命を差し出さねばならぬ」

これは公主なりに尚耀に頭を下げた依頼であった。


異例の速度で強硬政策を推し進める韋燦公主にとって、臣下の離反背信こそ最も恐れるものであった。特に今回の天下大変の火付け役ともなった尚耀にそっぽを向かれることは即ち韋燦公主の政が偽りのものとなることを意味していた。白寿を国政の為に生け贄にするには尚耀の同意が必要だったのだ。


そこへ、公主の結婚の相手である淕千もやってきて尚耀を驚かせた。平伏する尚耀に、淕千の方が深々と頭を下げ言った。「尚耀様、お顔をお上げ下さい。私どもの方が無法を申し上げておりますことは重々承知でございます」

尚耀は面を上げて、思わず息を呑んだ。

そこには、白寿と同じ顔があったのだ。


国の事を思えば、尚耀には、白寿の処刑に同意する以外の道はなかった。気付いたのは、公主は王位を戴いたと言いながら玉座に座って居なかったということだ。韋燦公主は父王の首を撥ねた時宣言したように、全ての事が終わったら自らの命を国民に捧げる決意であった。淕千も、それに伴するつもりだった。


尚耀は白寿の処刑に同意するのと引き換えに、一つだけ真実を答えて欲しいと申し上げた。

「淕千様に、御兄弟は」

淕千は、白寿と同じ顔で、答えた。

「私は老いた両親の許に遅く産まれた子で御座いますれば。兄弟姉妹の居れば良かろうと思ったことはありますが、両親に子は私だけで御座います」


尚耀は、淕千がかつて白寿と生き別れた弟だと確信していた。しかし、確証はなかったし、確かめる術も暇もなかった。

それからの一ヶ月、尚耀はそんなことを考える暇もない程の激務に東奔西走させられた。尚耀は国を代表し祝賀の舞を献上すること、余興として武道大会を開催することも決まった。