『鬼の子』あらすじ 第五章


白寿にとっては環均郭を出て初めて知られたことだが、鉤国は確かに傾いていた。

鉤国は隣国に比べても非常に豊かな国だった。土壌は作物を良く育て、気候は温暖で水は豊か、交通の便が良く、自然の要塞として他の干渉を寄せ付けない富んだ国だった。安定した経済は安定した国政を大いに支えていた。


しかし長い国史の間に王家・世氏の力は衰退した。代々名君を排出してきた世氏であったが、現王は稀に見る愚帝であった。国の豊かで強いことをいいことに、手当たり次第に国内の軍隊をかき集め周辺諸国へ攻勢を仕掛け国土を拡げていたのだ。これにより国内は戦で富む地と搾取される地に二分された。


国内はそうした対立勢力の間でいがみ合いが生じ次第に国力が落ちていった。当然周辺諸国はその隙に乗じ、合従結託して鉤国への侵攻を企図するようになった。つまり、鉤国は国内でも対外的にも一触即発で戦争が起こりうる状態にあったのである。

しかし恙蘭曰く、鉤国に迫る危機は戦だけではなかった。


「着いていらっしゃい」

恙蘭の一声で数人の供と共に白寿が連れて行かれたのは都の西方にある大門であった。何が始まるのかといぶかしむ白寿の目の前で起こったのは正に魔法の技であった。

轟音と共に、かつて白寿が二度打ち倒したような赤毛の獣が現れた。しかし大きさは過去のものの数倍はあった。


「懐かしい者に会えるのではないかしら?」

恙蘭がそう微笑むと、夜陰から二つの人影が飛び出してきた。一太刀に化け物を両断したその人物はなんと、迅濤と宗翰であった。

迅濤は軍事クーデター以降武術師範の職を追われていたし、宗翰は白寿が起こした事件のせいで無期限謹慎の刑に処せられていた。


しかし白寿には感慨に浸っている余裕はなかった。打ち倒された化け物に汪葉が巨大なハサミを入れると、化け物の体内から赤黒く発光する魂魄が飛び出してきた。それと同時に激烈な体の痛みと苦しみが白寿を襲ったのだ。

魂魄は白寿目掛けて飛び込んできたが、それを止めたのは恙蘭であった。


恙蘭は手からきらきらと光るごく細い糸を放出し魂魄をその網のなかに捕らえたのだ。「これが、貴女の中に巣食う魔物よ」

恙蘭の声を遠くに聞きながら、白寿は激痛の中意識を手放した。

目覚めると寝台の脇で恙蘭が糸を紡いでいた。恙蘭が空中を棒で掻き回すと綿飴のように煌めく何かが絡め取られた。


恙蘭によると、白寿はもう三日も昏睡していたそうだ。そこへ迅濤・宗翰・汪葉が加わり、ひとしきり再会の挨拶を交わすと、赤毛の化け物の説明が行われた。

迅濤に命ぜられ倒した赤猪、宗翰の軍を襲った赤鬼、そして今回恙蘭と汪葉が退治した赤い獣は、みな共通する邪悪な魂魄を宿していた。


「貴女、悪夢を見るでしょう」恙蘭が言った。「その悪夢の根源こそ、この化け物達を産んだ張本人なのよ」

恙蘭は語った。

二千年も昔、鉤国ができるもっとずっと前のこと、ある山奥に仙人や修験者達が住む里があった。よく晴れて風が吹いたある日、西風と名乗る紅い髪の青年が現れた。


西風は気さくで明るく、自然と読物をこよなく愛し、他の修験者や仙人たちからよく物事を学ぶ、ごく普通の好青年だった。瞳が碧かったから、あるいは遥か遠くの地からやってきた異国の民だったのかもしれない。西風が仙人の業を身に付け、誰からも一目置かれる存在になったのも自然の成り行きだった。


そんな西風に異変が見られるようになったのは、西風が仙人の里長になってから数百年も経った頃だった。

「時の流れというのは、何故一定なのかな」

西風は、弟子の一人に尋ねた。弟子が答に窮していると、西風は「戯れ言だから気にしないでくれ」と言ったので、その時はそれ以上何もなかった。


またある時、西風は別の修験者に同じ質問をし、修験者は、それがこの世の理だからなのではないか、と答えた。西風は今度は「僕は何故その理がそうなったのかと問うているので、それは答にはならないよ」と苛立ちを顕にした。

さらに別の時、西風は他の仙人にまたも同じ質問をした。


仙人は「時は在るもので有るものではない。ただそこに存在するだけで、有限で可変的なものではない。だから時の流れはいつでも一定で、同時に人によって感じ方が変わるものなのではないか」と答えた。

この答に西風は大いに満足したようだった。しかしその「満足」は彼に悪影響を及ぼした。


西風は、時を操る業を研究し始めたのだ。そのことは自然と共に生きることを至上の目的とする仙人たちにとっては大いなる禁忌であり、西風は瞬く間に人望を失った。しかし皆が総出で掛かっても西風を止めることはできなかった。それどころか西風に面と向かって反対した者はことごとく殺されてしまった。


西風の勢いは研究だけに止まらなかった。ついに彼は時間の流れを紙のように切り貼りできるようになり、思うがままに操作し始めたのである。

自然の摂理が壊れれば、その影響は甚大である。各地で異常な災害や時勢の変革等が起こり、世界は大混乱に陥った。そこで仙人達は蜂起することに決めた。


闘いは悲惨なものだった。ようやく西風を撃破し彼を封印できた頃には、何人もの偉大な仙人達や実直な修験者たちが犠牲になったが、仙人達の完全勝利とはいかなかった。西風は余りに力が強すぎた為、その肉体を滅ぼすことはできても、執念の塊のような魂魄までもは滅することができなかったのである。


西風の肉体が焼き尽くされる時、西風の心の中にあった純粋な悪が魂魄に凝縮された。それだけはどうやっても滅ぼせなかったので、西風の魂魄は人の身体の中に閉じ込められることになった。人として産まれ、人として世界を壊滅の危機を晒した業を、人の肉体でもって償わせるためであった。


それから長い時を経て、西風の魂魄は輪廻転生を繰り返した。邪悪な心は宿主となった人々を悪の道に誘い、あらゆる罪に手を染めさせた。

その間仙人達は西風のしたことの後始末に奔走した。西風の魂魄を封じ込めたとはいえ飛び散った魂魄の欠片が生き物に寄生したのでそれをしらみ潰しに退治した。


切り貼りされた時の流れも修復せねばならなかった。仙人の内でも特に才能のある者達が、時を紡ぎ縫い直す業を編み出した。

仙人達は二度と仙術を悪用されないよう、社会から完全に隠匿し、信頼の置ける者の間でのみ密かに伝承していくことに決め、各地に散って行ったのである。


鶴溢は西風との闘いを生き残った数少ない仙人の一人であり、恙蘭や汪葉は時の綻びを修復する業を身に付けた仙人であった。

「そして、貴女こそ現在西風が封印されている人宿なのよ」

白寿は西風が造った時間の裂目と西風の輪廻転生が丁度重なった時に産まれた子だったのである。


時の歪みと魂魄の力は互いに共鳴し合い、封印を弱めた。それに伴い各地に飛び散った魂魄の欠片が力を強まり、それが今世間を混乱に陥れている赤叡師団として知られるようになったのである。

白寿が異様な姿で産まれてきたのも、人に憎まれ人を傷付けてきたのも、白寿の中に居る西風の為であった。