『鬼の子』あらすじ 第七章


韋燦公主が自分自身の王位の拠ん所でもあるはずのお家政治を撤廃し、逆臣を皆殺しにして、民に命を捧げると宣言したことは、不安に怯える人々の心を鷲掴みにした。

韋燦公主は恐るべき身軽さで心ある官吏や人望の厚い武人等を身分の隔てなく登用したので、民は積極的に公主の為に尽くした。


鶴溢や恙蘭は既に韋燦公主の為に働いていた。鶴溢は赤叡師団との謀略戦に尽力していたし、恙蘭は王宮を守りながら女達を統べる地位に着いていた。彼らの口添えで宗翰や迅濤はそれぞれ禁軍の一個大隊の隊長に抜擢された。汪葉は尚耀の許へ戻り、以前以上に尚耀の為すことを補佐することになった。


白寿は、厳重に封魔の印を施された、王宮の最も深い場所にある奥牢に入れられることになった。鶴溢や恙蘭は白寿の中に居る西風との積年の確執により、白寿に対して友好的な態度を取ったとは言えなかったが、恙蘭の采配により最低限の家具や生活用品が用意された。


白寿の入牢はごく秘密裏に行われ、恙蘭や汪葉を含め少数の仙人達によって封が施された。

汪葉は別れの時、わんわん泣きながら、白寿のことを強く抱き締めた。「私は、諦めていないから。お前を救うことを諦めていないからな」直情径行で不器用な、汪葉らしい別れであった。


最後の封印を施す直前、恙蘭は白寿に分厚い手紙の束を渡した。「貴方も少しは人の気持ちを知るといいわ」手紙は、尚耀から白寿に宛てられたものだった。

分厚い石の扉が閉められ人の足音が遠ざかっていくと、とうとう白寿は独りになってしまった。採光のために開けられた天窓には格子が嵌まっていた。


入牢してしばらく、白寿はただただ呆っとしていた。自分に向けられる敵意も、家族の団欒も、自然の喧騒も、軍隊で飛び交う怒号も、女達の嬌声も、何一つ聞こえてこなかった。採光用の窓から僅かに風のざわめきや小鳥の鳴き声が聞こえてくる程度、白寿にとっては人生で初めて体験する、静寂だった。


天井を見つめることと、日に二回差し入れられる食事をとることだけの時間に飽いた頃、白寿はようやく尚耀からの手紙に手を伸ばした。

情緒不安定だった白寿の修行が完成する前に、下手に手紙を読ませて里心がついてしまっても困るので、恙蘭らによって白寿に届く前に差し止められていた手紙だ。


尚耀は、白寿が初めて屋敷を離れてから月に一、二回、必ず文を奥って寄越してくれていた。初めの方は白寿が文字を読めなかろうと下手くそな挿し絵が沢山書かれていた。身体はどうだ、とか、屋敷でこんなことがあった、とか、細々とした枝葉末節のことばかりだった。


汪葉が孤児達を拾ってきた頃になると、子供達からの手紙も付いてくるようになった。子供達の文字の手習いのためだ、と説明する汪葉からの文もあった。

白寿が宗翰のもとへ行った頃からは、白寿のことを心配する言葉が増えていった。優しく、力強く励ましてくれる、そんな文面だった。


その手紙の中に、このような文章があった。

『白寿よ、覚えているか。お前がウチに来た日の事を。お前は俺を頼って家に来た。見ず知らずの俺を頼って家に来た。俺はその時お前を護ろうと心に決めた。お前を助けて行こうと決めた。今お前が大変な目に遭っている事は汪葉から聞いている。


『だが仔細は一切聞いていない。お前の口から聞くまで俺は聞かない。お前が、自分はまだやれると思うのならば、俺はそれを支えよう。お前の事を信じて待とう。だが努々忘れてくれるな。お前が話したいと思った時、お前に助けの手が必要な時、俺はいつでもここにいる。お前の声を聞いている。


『お前が俺を頼りたいと思った時、頼れる男になっていよう。それまで俺も強くなろう。俺も共に闘おう。白寿、きっと忘れてくれるなよ。俺はここにいるからな』


白寿は、読んだ。尚耀の手紙を何度も読んだ。何度も何度も読み返したが、読むことに飽く瞬間は一度たりとて訪れなかった。

その日を境に、奥牢の中で白寿はかつての稽古をなぞるようになった。迅濤から学んだ体術。宗翰から学んだ武術。汪葉から学んだ人の気を読む術。恙蘭から学んだ心気を繰る術。


そのどれもが新鮮で、新たな学びに満ちていた。白寿は、静かに審判の時を待った。

ところで韋燦公主の即位以後、意外にも世間は落ち着きを取り戻し始めていた。かつての鉤国政権は崩壊してしまったが、それまで腐敗した制度に埋もれていた有能な者達が想像以上の活躍を見せたのだ。


人々も、頑として明確な意図を持ち行われた制度改革に大なり小なり同調の道を取った。親族郎等晒し首にされた王族達を見て韋燦公主を暴君と呼ぶ者も、金を横領したり遊びが派手だったりした官僚達を尽く捕縛していく様に諸手を上げて賛同するものもいたが、恐怖なり尊敬なりは人々を一つに纏め上げた。


当然国の大事に乗じ侵攻しようとしてくる近隣諸国もあったが、迅濤や宗翰らの率いる鉤国禁軍が一国の公軍とは思えない神出鬼没の遊撃戦を繰り広げ、そうした国々の出鼻を挫いた。

「寄らば、斬る。退けば、鉤国の傘下に加えてやろう」

公主自ら各国に出向き切った啖呵は相当の成果を出した。


韋燦公主がこれ程の大見得を切ることができたのは、衰えたとはいえ鉤国が広大な領地を誇る大国であるが故だった。其処に住む大量の国民のほとんどが若き新王の誕生を歓迎し、大国としての矜持を取り戻して意気高揚していたので、単なる損得勘定だけで鉤国を狙った周辺各国には付け入る隙が失せたのだ。


それまで合従して鉤国を攻撃していた周辺諸国王の結託は韋燦公主の迫力に押され忽ち瓦解、半分以上の国が鉤国と半ば強引に連衡し他の多国の気勢を削いだ。

しかしそんな中でも一国だけ鉤国への攻勢の手を緩めない国があった。近年北方で急激に力を伸ばして勇猛果敢で悪名を馳せる佰国である。


佰国は鉤国の反逆者達を積極的に受け入れており、今や鉤国から流れ込んだ赤叡師団の巣窟となっていた。

ある日佰国との最前線より密書が届いた。そこには宗翰の軍が配置されており、密書は宗翰が受け取った。内容は、翌日昼間の大中原で、指揮官同士腹を割って話そうじゃないかと言うものであった。


相手の指揮官は、彼が采配を振るうようになった為に佰国が国力を増したと言われるほどの名高い猛将であった。和睦の申し入れならば願ってもないことだったが、そんな希望的観測は宗翰は持ち合わせていなかった。宗翰は万一の時にはその場で千合でも斬り合わせようという気概で茶席についた。